Beyond the Cloud

クラウド、IT、女性をめぐる本と思考の旅

信念と勇気――池上彰『世界を変えた10人の女性』

 何かで紹介されていたのがきっかけだったと思うが、世界を変えた10人の「女性」、というところに引っ掛かりを感じて読むことにしたのだったと思う。この引っ掛かりについては池上氏自身も本文に収められた講義の中で言及しており、本当は世界を変えた10人の中に女性が5人いるのが理想、と言っている。そうだろうなと思う。そしてこの講義がお茶の水「女子大」の女子学生を相手に行われた点、CREAという「女性」誌に連載されたという点にもやっぱり引っ掛かりを感じざるを得ない。


と本文の感想に入る前に、属性だけでいくらでも感想が語れてしまうのだが、ともあれ読み物として面白かったというのが第一印象。偉大な功績を残した人物の人生を、偉業やいい面だけでなく、人間臭い部分も含めて、大変わかりやすく面白く語ってくれている。マリー・キュリー恋多き女だったとか、アウンサンスーチーはミャンマー田中真紀子だとか、かなり新鮮。

ちなみに10人の人選は結構池上的に偏っていると思う。政治家が多く、実業家はボディショップを立ち上げたアニータ・ロディック一名だし、彼女も純粋なビジネス上の功績だけでなく動物実験を廃止させたという社会的な側面が取り上げられた理由のように見える。そして10人の女性たちのほとんどが裕福な家庭の出身で、女性が大学に通うことすらかなり珍しかった時代でも大学どころか大学院にまで行ったり、留学したりとかなりの高学歴。出自で選んだわけではないだろうが、やっぱり世界を変えるのは「恵まれた」人なのだろうかと複雑な気持ちにもなる。

最後に学生のレポートの講評会の記録が載っているのがまた興味深い。お題はこうだ。
「『世界を変えた女性』たちの多くに共通する資質とは何か、あなたの考えを800字以内で述べなさい」
これにならって、800字ではないが、何が共通項だろう?と考えてみた。

私の答えは、「信念」と「勇気をもって実行し続ける力」の両輪。
自分が何かをやりたいと思い、やるべきだと信じ(時にはそれがナイチンゲールマザー・テレサのように神からの啓示になるのかも)、困難にぶち当たっても信念を捨てないこと。もはや思い込みにも近い。そして、信念に基づいてそれを実行すること。一度でなく、続けること。そのために信念を持つこと。その循環が偉大な功績につながったんじゃないかと思います。

それにしても、世の中にはいろいろな生き方と、いろいろな能力の活かし方があるものだと。ほかの人の人生っていうのはほんとに興味深い。

10年後のワタリウム

大学生のころ、私はあるアーティストに夢中だった。
今みたいに全国区で有名になっちゃう前で、本人と顔見知りの人が何人も私の知り合いにいて、小さなハコでライブして終演後そのまま会場にいることも多かった。
ライブに通い、毎日鬼のような勢いで更新される日記(まだブログじゃないところがポイント)をかじりついて読み、たまに意を決してメールを送ったりした。大人に交じって大学生の女の子ってとこで認知されたおかげか、ライブに行くと声をかけてくれたり、メールに返事をくれたり、しまいには日記に私自身が登場しちゃったりして。

その人が私に個人的におススメしてくれたのが、バックミンスター・フラーだった。「宇宙船地球号」で有名な。ちょうどその当時ワタリウムで展覧会をやっていて、私は当時付き合っていた彼氏と一緒に見に行ったのだった。未来の建築物にドキドキし、幾何学の構造物のレプリカに胸が躍った。フラーの記憶と一緒に、青山の奥まったところに隠れ家のように立つワタリウムのモダンな建物がとてもかっこよくて、それが私の記憶に残っている。

約10年ぶりにワタリウムに行くためにおりた外苑前の駅は、完全に異邦人として訪れた10年前にくらべてだいぶ親しみ深くなっていた。5年前にあげた結婚式の会場も外苑前だったし、それ以外でも何度か来て街を歩いたことがある。表参道よりも大人で、商業の匂いがあまりしない、静謐でラグジュアリーな街。青山通りを歩き外苑西通りで曲がってしばらく歩くと、ああこんなところにあったのか、と拍子抜けしてしまった。直線が印象的な建物がすぐ目に入った。なんであのころは隠れ家っぽいと思ったんだろう。こんな分かりやすいところにあるじゃないか。

展示会は人もまばらでほとんど独占状態。おかげで周りを気にせずゆっくり見られました。が、写真の点数が意外に少なく、あれ、こんなに狭かったっけ、と思うほど。ウィトキンの写真にけっこう期待して来たのだけど、2点くらいしかなかった。残念。
というか過去にやった展示会のリバイバル?だったのですね。
そして多木浩二が昨年なくなっていたことを私はここで初めて知った。

多木浩二の、2012年の今読むにしてはなんだか気恥ずかしくなっちゃうような、って言ったら失礼だけど、歴史が看過してきたものについての繊細な文章を読みながら、私はなんだか村上春樹が好きな建築科の大学生が才気走って書いた文章を読んでるような気分になってしまった。
いや、大好きなんだけど、こういうの。
こういう、体制やメジャーが取りこぼしていくマイナーやささいなものへの視点、という構造化って分かりやすいし、共感しやすいし、大好きだ。2012年に同じ構造が成立するかどうか、についての若干の疑問はあるけど。

4Fだけ他とちょっと趣が異なり、鈴木理策の個展みたいな感じ。真中に雪の映像が流れるモニタがあり、焦点が合ってはぼやけていく雪の結晶をしばしの間見とれてしまった。きれいだったなあ。
ほかの雪の写真もきれいで、なんだか浮世絵っぽい。不思議。

残暑厳しい8月末に、ひんやりした気分になり、帰りに地下のON SUNDAY'S CAFEでまったり遅めランチして、学生時代の思い出に浸りつつまた外苑前から電車に乗って帰りましたとよ。ちなみにランチしてたら白衣来た女性(女医さんぽい)が来て一服だけして去っていった。謎。

自分のことと文化のことを意識の俎上に常に上げておくことが許されたあのころと違って、自分以外のためにやるべき日常のもろもろに今の私はたやすく流され、感じたことをあっという間に忘れてしまう。だからそれを少しの間だけでも忘れないように、記録しておきます。

小説と、小説らしさの間のせめぎあい――保坂和志『この人の閾』

この人の閾 (新潮文庫)
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実を言うとこの本は大学生の頃に読んだことがある。それも一度きりではなく、数回、理解するために読んだ。保坂和志の小説について書かれた評論も、読んだ。で、その当時はなんとなく説明されて理解した気になっていたが、頭の底のほうでは、こういう小説はあんまり好きじゃないなと思っていた。
が、今回、保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』を読んで俄然興味がぶり返し、改めて図書館で借りなおして読んでみたのだけれど、あの当時自分はいかにこの小説の良さを分かっていなかったか、ということを痛感した。面白い、とか、凄い、という言葉では説明できないのだが、とにかく良い、のだ。

小説とは、小説を読むという体験そのものである、ということを保坂氏は前著で言っているが、この小説に収められた4作品はどれもそういった意味でとても氏の言う「小説」であるといえる。ストーリーにドラマはなく、一見特徴のない文体だが、よく読んでみると、他の文学作品によく見られる常套句的な表現や、感傷によって小説的なものにすりかえられた追想を注意深く回避し、平坦な文章をこころがけていることがわかる。文章は書き言葉よりも話す言葉に近く、読んでいるとリズミカルに頭の中に入ってくる(とはいえ文章自体は読みやすいというわけではなく、むしろ風景や人物の所作がそれと分からぬよう仔細に書き込まれているため、いちいち想像しながら読むと意外に読み進めにくい)。小説らしさと、小説を成り立たせる言葉のせめぎあい、そして言葉という武器を持って世界に勇気を持って立ち向かうとはこういうことなのかということを感じた。

以前私がこの小説を読んだときに良さが分からなかったのは、やはり自分が小説、そして小説を書くことにきちんと向き合っていなかったからなのだと思う。本好き、物語好きの自分にとって、評論家がいかに小説を分解し分析しようとも、小説は最終的には物語で、論理ではすくいとれないものであってほしいと思っていたし、またそういうものが小説なのだとも思っていた。

が、近頃自分で小説を書くということにかれこれ10年ぶりくらいに思い至り、書いては見るものの行き詰まり、手法についていろいろと考えたり勉強したりするうち、保坂和志の良さがようやくわかるようになった。小説に対して真っ向から挑んだプロセスこそが小説そのものなのだという信念が、いかに勇気に満ち溢れたものかということが、わかってきた。

小説は論理ですべてをすくいとれないのは当然で、だからこそ世界と向き合うために言葉によって小説にしなければならないのだ、という当たり前のことを、感覚として実感したのは初めてかもしれない。

夢に落ちる寸前の不条理――筒井康隆『ヨッパ谷への降下』

ヨッパ谷への降下―自選ファンタジー傑作集 (新潮文庫)
筒井 康隆
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日常の中にふと妄想が入り込む瞬間がある。
たとえば夜、カーテンの隙間から漏れてくる家の前の街灯の光が絨毯に当たって一筋の光の道を作り出しているのを見ていると、光に照らされて浮き上がった埃から小さな得体の知れない生き物が生まれ出てくるような妄想にとらわれたりする。また昼間コンクリートアスファルトで固められた住宅街の一角にぽつんと取り残されたようにある、林というには小さい茂みの脇に生えている青々とした雑草を見ると、その隙間から地下の見知らぬ不思議な世界に繋がっているような感覚に捕らわれたりする。
それは眠りに落ちる寸前の論理と不条理の入り混じる瞬間に似ている。

筒井康隆の『ヨッパ谷への降下』はそんな日常のすきまから発生した妄想小説であり、夢に落ちる寸前の不条理が条理となる瞬間を切り取ったような小説群だと思う。

もともと筒井はあんまり得意じゃない、というのは紳士的な星新一と違ってやたらと下品な描写が多いし生々しくて少なくとも食事時にはむかない、それに一人称が「私」でも「僕」でも決してなく「俺」もしくは「おれ」なのが居心地が悪いと思っていた。
この自選ファンタジー傑作集もその例にもれないのだけど、わりと抑え目。筒井の描く生々しさは妄想の一形態なのだということが分かって腑に落ちた気分になった。

しかしこれは「ファンタジー」ではないと思う。ファンタジーは現実とは異なる世界に現実を構築するものだと思うが、現実の中に現実ではないものを紛れ込ませる小説は「幻想小説」というのが正しいのではないだろうか。いまの日本の文学界じゃ貴重。私は大好きだけどね。

マクロビオティック事始め――『中美恵のキレイになるマクロビ教室 食べるエステ』

1年半ほど前にちょっと体調を崩してから、できる限り外食はやめて自炊するようになり、お昼もお弁当持参、体にいいものを食べることを心がけるようになった。すると気になり始めるのが本屋の料理本コーナー。そして最近やたらと目に付くのが「マクロビオティック」、つまり玄米菜食の料理本。多少興味はひかれつつも、ずいぶん面倒そうだなーという印象でしばらくは気にもとめていなかったのですが。
つい2週間ほど前にふとこの本を買って読んだことをきっかけに、感化されやすい私はすっかりマクロビ道に目覚めてしまいました。

「キレイにになるためのマクロビ」、と銘打っているだけあって、いろいろな体の不調、心の不調に食の面からアプローチする方法と、そのレシピが紹介されているのがまずわかりやすい。砂糖をとりすぎると頭がぼうっとするとか、乳脂肪分をとりすぎると鼻水がでやすいとか、ああ、これってそういうことだったんだ、と府に落ちるところもたくさん。
マクロビ理論の基本である「陰陽」の考え方は、一読して理解できても、実際にじゃああれは?これは?となってしまうが、そこまできちんと覚えなくても実践できるところが良いですね。
何より、女性がきれいになるためにこんな方法がありますよ、というポジティブなオーラが伝わってくる。特にこれ、


「あなたのカラダはあなたが毎日食べたものでできあがっているのです。」

この一文はかなりずっしりきた。確かにそうだ。
自分の体と正直に向き合うことは、自分の体に入れるものと、その結果をちゃんと意識することなのね。

そんなわけで、玄米を軽く取り入れたり、梅醤番茶と味噌汁を毎日飲むこと、砂糖を極力控える、週に1〜2回は動物性食品をいっさいとらない、というところからとりあえず始めています。
梅醤番茶は特に飲み始めてからだいぶ調子よくなったような気がする。お勧めです。

源氏さん、やりすぎですよ――瀬戸内寂聴『源氏物語 巻1』

源氏物語 巻一 (講談社文庫)
瀬戸内 寂聴
講談社
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やたらと国語教育に熱心な女子高に通ったおかげで、古文大好きっ子だった私。当然源氏も大好き。『あさきゆめみし』にはだいぶお世話になりました。(でも枕草子はもっと好きだったりして)
わかりやすい現代語訳と評判の瀬戸内訳源氏が文庫になったと聞いて早速とりあえず1巻を読書。

半分文語が入ってる与謝野訳とかとくらべて確かに分かりやすくきれいな訳であることは間違いない。しかしそれにしても、現代語になるとより光源氏が身近な存在に思えるだけに、その女たらし加減がいささか目に余る。空蝉への迫りようはちょっとストーカー入ってるし、夜這いしてみたら目当ての人がいなくて、かわりにそこにいたその女の娘の処女をさっくりいただいてしまってます(娘を身代わりにして逃げる母親もどうかと思うが)。藤壺との関係はマザコンな上に不倫で子供までできてしまうし、紫の上にいたってはロリコンでかつほぼ誘拐だ。源氏、いたるところで自分の浮気の言い訳しまくってるし、相当強引。やりたい放題だな〜。

しかしこれも平均寿命40年の儚い命のなせる業?実はメインの登場人物のほとんどが10代、20代なんだよね。今の20代、30代がちょうど10年前にシフトした感覚でしょうか。

橋本治の『桃尻語訳・枕草子』じゃないけど、現代恋愛小説風に書き直したらかなり笑える小説になるんじゃないだろうか。和歌は絵文字つきメール、みたいな。

ちなみに巻1に収められているのは「桐壺」から「若紫」までの5帖だけど、いま現在世の中にあるラブストーリーの典型のうちかなりのパターンがすでに登場していることに、あらためで驚き。最後まで読んだら間違いなくすべての恋愛小説を網羅できるでしょう。